長谷眞次郎とは

長谷眞次郎は昭和初期に日本で活躍した洋画家です。

(調査報告書 序文より抜粋)

眞次郎は1916年に京都で生を受け、26歳になった1942年に二科展入選を機に画壇で認められる。そして京都・神戸を中心に没年である1963年まで絵画を発表し続けた。彼の
活躍していた時期は関西アートシーンは、日本中から注目を浴びていた頃と一致する。活躍前期の1940年代前半は「阪神間モダニズム」の晩期にあたり、次世代の芸術活動の糧となる時期であった。また、活動後期の1950年代後半から60年代にかけては現在もなお日本の芸術に影響を与え続けている「具体美術」の揺籃期である。即ち、眞次郎は、その後の日本のアートシーンの中でも重要な意味を持つ地域で、二つの時期に影響を受け、もしくは与えながら活躍をしていた画家と言える。

彼は有力な団体展や公募展で入賞・入選を重ね、それらの絵画は当時多くの人々に認められていた。1955年より三年連続、京展で入賞(紫賞・優秀賞・市長賞)を果たし、その後は委嘱作家として出品を求め続けられたのはその具体例の一端として示すことが出来る。京展13回のパンフレットによれば「京都芸苑の大家中堅どころの作品も併せて夫々五部に亘って陳列し、伝統ある当地美術界の盛容を示」すものとして開催されていた。その上で、当時の京展は画壇の派閥を超えて作品が集う場としてのニュアンスが含まれていた。つまり、名実共に備わった画家が一同に会する場に、眞次郎は招聘されていたのである。

残念ながら彼の残した作品に対する研究は始められたばかりであり、現状では彼の芸術性や評価については、断片的な公式記録に依らざるを得ない段階である。また、制作年の不明な絵画も多く時代性をふまえた考察・研究が容易ではない。ただ、彼の作品からは、ひととなりをうかがい知ることができる。彼の絵画の中にはモチーフとの関係性があればこそ生じる、穏やかな、もしくは世界に対する構えが消滅した表情や空気感が定着されている。これは眞次郎の眼差しが愛情に充ちているからこそ成立する作品である。つまり、彼は慈愛の画家と言えよう。そのためか、モチーフは家族や地域、生活を扱うものが多い。

しかし、その愛情の深さは時として反作用を及ぼす。彼の愛情は彼の画家としての名を覆い隠したのである。本書が発行される2015年現在、彼の絵画を目にできるのは、京都市立美術館に収蔵された1点の作品「月は希望を与える」のみに留まっている。この状況は彼の活躍に対して収蔵・コレクションされた作品が非常に少ないと言えよう。
理由として考えられることは、彼が画家としての活動を本格化する前に早世してしまった点を否定することは出来ない。しかし、それ以上の理由として彼の深すぎる愛情が挙げられる。彼にとって作品はモチーフとの関係性を具体化して固定した愛情の証であった。そのため、作品が他者の手に渡ることを良しとせず、手元で保管し続けた。つまり、彼の作品そのものに対する姿勢が画家としての名を世の中から覆い隠したのである。

残された作品群のほぼ全ては、彼の没後、遺族が保管し ていることが近年明らかになった。これを契機として長谷眞次郎の業績を再評価し、それらの作品を公開するために2012年より段階的に調査が開始された。本書はその研究の途中経過を資料面から示す報告書である。そのため、本書は長谷眞次郎の芸術家としての軌跡の全て示すものではない。しかし、本書を一覧して頂ければ彼の芸術行為への探究心や姿勢は誰の目にも明らかであろう。